中上健次の「不良性」――自己紹介にかえて
最近の出来事を語ることで、自らの横顔を明らかにすることができるだろう。
池袋の古本屋で、1979年に発行された中上健次の「破壊せよ、とアイラーは言った」のハードカバー版を偶然見つけて購入した。日に薄く焼けた裏表紙をめくると、2100円の値段が貼ってあったが、中上健次の一ファンとしては高いという印象はなかった。本の価値は、誰でもコピー可能なテキストという記号だけで決まるものではない。
購入して自宅に帰る道すがら、山手線の中でさっそく読み始めた。エッセイ集である「破壊せよ、とアイラーは言った」の内容は出版から30年近く経過しているというのに、いまだに新しさを感じさせるものだったが、その中の「不良性のない時代」という一編に私は注目した。中上は、「三十面さげて」ディスコに取材に行く自分のことを茶化しながら、流行文化に触れて次のように書いていた。
「私が欲しいのは、不良性。反抗とも言える。もちろん不良や反抗と言っても、すぐ喧嘩をする事やカツアゲ、オドシをすることととらないで欲しい。青春や若さを輝かす不良性、つまり、若衆が鋭くとがる事であり、世の中を疑う事、否定する事である」
中上健次の言うことを私なりに解釈すると、青春や若さを輝かすことができる「不良性」とは、既成の体制や流行に対する懐疑心であり、知的でありつづけようとする精神のありようである。たとえば2005年現在、ペストのようにインターネットが蔓延する日本の言論空間。あらゆる事柄を並列化し、平等化したかのような幻想をもたらしたインターネットの支配下で、知的であろうとするには大変な力がいる。平等などどこにもないし、何一つ並列なものなどない。1995年、個人メディアとして登場したインターネットは自由を言論にもたらしたのではなく、それが可能だという幻想をもたらしたのである。インターネットの内部に閉じ込められた私たちにとって、そのような誤解はあまりにも身近なものだ。
作家の言葉というのはライフルから放たれる銃弾のようなものである。1979年に書かれたこのエッセイの言葉が、私の胸を貫き足を止めさせる。少なくとも私の認識する「作家」というものは、そのような銃弾を撃つことができる人間だ。たとえば、私の職場がある渋谷区笹塚駅前に紀伊国屋があり、その本棚には大量の本が並べられている。その書籍の中にどれほど、このような言葉が書かれた本があるだろうか? その割合について真剣に考えるとき、中上が生きていたらこの現代をどう評しただろうか、と思わずにはいられない。
私は現在の日本言論のありようを否定したいのではない。私自身もまた、不良性が消失してしまったかのような、この生暖かく不気味なインターネット言論空間の一部であるほかないのだ。だが、この世界を上から見下ろすことができる、ある超越的な立場に立つことができる、と考えるのは愚かだ。世の中を否定することは、言葉で言うほど簡単なことではない。私はこのエッセイを書いた中上と同じ年になって、そのことを少し理解した。世の中を疑うこと、鋭くとがることは1979年にそうであったように、いまもなお困難なのである。言葉を変えれば、中上は世界がどのように変貌しようとも、けして消えてなくならない問題について書いたのである。
そこまで考えて、山手線のドアが開いた。私は新宿で中央線に乗り換え、エッセイを読み返す。中上は、エッセイを次のような言葉で締めくくっていた。「――反抗の術を知らない若衆らは踊る。日本で敗戦後、若衆の間にダンスが流行したと聞くが、踊る者にそんな痛々しい気配はない。私は一人、見ている」
反抗の術を知らない若衆の姿は、インターネットに生きる私たちの姿と重なる。象徴的なのは、中上がこのエッセイを否定でもなく、疑うことでもなく、「見ること」で終わらせていることである。不良(知的)でありつづけるために、世界のありのままの姿を捉えよ。私が確かに聞いたのは、そのような力強いメッセージだ。
「匿名性」。インターネットについて語る際、よく利用される言葉だ。ホームページという「個人メディア」が登場した1995年以降、顔の見えない言葉だけのやり取りが、どこでも瞬時に行えるようになった。日本においては、匿名の巨大掲示板「2ちゃんねる」のようなメディアが生まれ、匿名の無責任文化が定着したかに見える。
そんな、2001年に宮崎駿が発表したアニメ映画が「千と千尋の神隠し」だ。主人公の少女は、ふとしたきっかけで妖怪達が住む異世界に迷いこんでしまう。少女は一緒に迷い込んだ両親を救うために、妖怪のボスである魔女のもとで働き始めるというストーリーである。仕事の体験を通して、少女の「生きる力」がよみがえる、というのがキャッチコピーだが、本作品にはもう一つ隠れたメッセージがある。
千尋が出会う妖怪の中に「カオナシ」と言う妖怪がいる。カオナシはちゃんとした言葉を喋ることができない、欲望に忠実な、いわば未成熟な怪物だ。また、物語の鍵であり千尋を助ける「ハク」というヒーローは、自分の本当の名前を魔女に奪われているため、本来の力を発揮できない。カオナシとハクは顔の無い匿名文化の「裏」と「表」ではないか。匿名性は人間の生きる力、その本来の力を奪っている、と読める。
千尋もまたハクのように名前を奪われ「千」という存在に貶められてしまう。千はどうやったら名前を取り戻せるのか? 宮崎監督が投げかけた刃物のような問いかけは、今を生きる私たちの喉元に鋭く突きつけられている。