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      <title>ネットキッズの冒険</title>
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      <description>日本に生まれアジアで育った売文家が書きなぐる、ネットと文学と女たちについてのブログ</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
      <lastBuildDate>Sun, 05 Mar 2006 22:06:18 +0900</lastBuildDate>
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         <title>書くことについて書く、あるいは息をするように歩くように書くこと</title>
         <description><![CDATA[<a href="http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2006/02/post_a319.html">極東ブログ：ハイパーグラフィア</a>

<blockquote>魚屋は魚を売るのが好きだが、その好きというのは、趣味でやっているのではない。趣味の延長で楽々やっているかたもいるかもしれない。それでも、その行為が生きることと同値するようなありかたで実践している。</blockquote>

　ものを書くことを商売にしている、あるいはしようとしている人間にとって、書くということは死活問題であり、その行為の意味や意義について日常的に考えるものである。プロになりかけの人間にとっては、文章を金銭に変える最も効率の良い方法を探すということも追加されなければならないだろうが、書くことについて考えるということは、確かにどう生きるかということと、ほとんど同義である。

　なぜ人は、書くことについて考えるか。昔中上健次が、小説というのは三味線だと書いていた。三味線をいじってみる。音が出る。楽しい。すると自分でも練習してみる。コードを憶えてみる。この繰り返しで三味線という楽器を理解していく。その結果プロになるかもしれないし、アマチュアのままかもしれないが、最初にあるのは興味である。その通りだと思うのだが、書くこともこれと同じで、最初はただの興味でしかないし、それ以外の動機があったとしても、それは長続きしないと思う。たとえば小説家になりたいと言っていた私の大学生の知人はすべて、十年たったいま、ただの一人も書きつづけていない。これは才能の問題ではない。そういうものである。

　さて、多少書くことがおもしろくなってくると、当然、どうすればおもしろい文章が書けるか、どうすればよい文章が書けるか、ということが気になってくる。三味線で言えばもっとコードを憶えるとか、指の動きをどうすれば速く弾けるか、ということに該当するだろう。ただここで問題が生じる。たとえば、フランス料理のシェフになりたい人間であれば、目標とすべきスキルは決まっているし、金銭的な問題はあろうが、留学あるいは学校で学ぶ、といったことを通じて、等量的にその技法を学べていけるし、実際にそのような方法でシェフになった人間はたくさんいることであろう。だが……上手な文章とは、なんであるだろう？　おもしろい文章とは、なんであるだろう？

<blockquote>およそ物を書くなら魚屋が魚を売るように八百屋が野菜を売るようにそれが生きるための避けがたい作業であることを身体に叩き込ませるように書け……。</blockquote>

　finalvent氏が紹介している吉本隆明の文章に書かれたようなことを、私は柄谷行人の評論を通して学んだように思う。書くことについて考え続けること、おもしろい文章とはどのようなものであるだろうかという問いに答えようとすること。この問いは難問である。なぜなら各個人にとって、心を打つ文章というものは違うのであり、それは私たちが人生に求める価値が、一人一人違うことと同じであり、同じ女を好きにならないことと同じであり、幸せの定義が異なっていることと同じだからだ。

　さきほど三味線の例をあげたが、書くことが楽しいということのほかに、私の個人的な理由をあげるとすれば、ある文章を読んで、世界の姿がまったく変わってしまった経験があるのだ。これは世間一般的には、芸術に惑わされてまっとうな人間としての道を踏み外した、ということかもしれない。人の心を大きく揺さぶり、その世界のありようを変えてしまうような文章を書いてみたい、と密かに思わないことはない。もちろん、それができるかどうかは才能というよりは運である。

　だが毎日生きるように、息をするように、生活の一部として、魚屋が魚を売るように日常的に書きつづける以外に、魂を揺さぶるような文章を書く方法などありはしないだろう。]]></description>
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         <category></category>
         <pubDate>Sun, 05 Mar 2006 22:06:18 +0900</pubDate>
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         <title>彼に失望した若者に殺されるために、堀江貴文は自殺するな</title>
         <description><![CDATA[　ライブドアの堀江貴文社長が証券取引法違反（偽計取引、風説の流布）で昨日逮捕された。

<blockquote>
[朝日新聞]
ライブドアの堀江社長ら４人を逮捕　東京地検特捜部

　ライブドアの関連会社が虚偽の企業買収情報を公表したなどとされる事件で、東京地検特捜部は２３日夜、ライブドア社長の堀江貴文容疑者（３３）ら４人を証券取引法違反（偽計取引、風説の流布）の疑いで逮捕した。堀江社長は逮捕容疑を否認しているという。ライブドアをめぐっては、ライブドア本体が粉飾総額９０億円に上る巨額の経理操作をした疑いも浮上している。特捜部は堀江社長が一連の不正工作に深くかかわったとみて、疑惑の全容を解明する方針だ。</blockquote>

　私がよく憶えているのは、プロ野球参入時の騒動のときの堀江だ。新球団を作るなど誰も予想していなかったときの発表だったため、率直に言って好印象を持った。自由業、自営業をやっていて、堀江のことをバカにできる者などそういない。それは堀江がお金を持っているからではなく、蛮勇さ、新しさ、そして夢を提示した男であったからである。以前テレビのニュース番組の調査で、自営業者には堀江ファンが多く、会社員にはアンチが多い、という調査結果を発表していたことがあったが、それはそうだろうなと思う。

　私は以前から「金ですべてが買える」、「命の次に大事なのは金」という堀江の意見に興味を持っていた。なぜなら、それは真実だからだ。真実ではない、と説教をする人間は、金の汚らしい側面を知らずに子供時代を過ごした幸福な人間ではないか。金ですべてが買える、という発言を生み出すものは、実は金では何一つ買えはしない、という徹底的な絶望であり、ニヒリズムである。私が堀江に興味を持っていたのは、おそらく彼が持っていたであろう知的なニヒリズムのゆえであった。

　堀江が今回の事件でやっていたことは、専門家はグレーと主張しても、おそらく犯罪として司法の場で裁かれるだろう。私はこの業界の専門知識を持たないためグレーかそうではないかはわからないし、興味もないが、逮捕のニュースを聞いて非常に憂鬱になったのは事実である。つまり日本という社会は、絶望というものの存在を認めず、「金ですべてが買えるわけがない」という、言葉そのものは特に問題がないように見える、やわらかい真綿の善意の言論で、世界の汚れた側面を隠蔽し、堀江という個性を抹殺するだろうということを考え、憂鬱になったのである。

　私は、堀江のやっていたことに興味はない。だが、堀江が持っていたニヒリズムは共有していると感じていた。ニヒリストだからこそ、新しいプロ野球チームを自分たちの手で作る、そしてやがては宇宙に行く、という荒唐無稽で無謀な夢を提示することができたのだ、という矛盾があるのだ。今回の事件で、堀江の提示した夢はまがい物だった、と考え、憤る若者たちがいるだろう。何万人も何十万人もいるだろう。その憤りは正当なものだ。

　だから堀江貴文は自殺するな。生きて帰ってきて、お前に失望した若者たちに刺し殺されよ。]]></description>
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         <category>時事</category>
         <pubDate>Tue, 24 Jan 2006 21:34:08 +0900</pubDate>
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         <title>中上健次の「不良性」――自己紹介にかえて</title>
         <description><![CDATA[<img alt="netkids-nakagami01.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/netkids-nakagami01.jpg" width="120" height="146" class="photo-r" />　最近の出来事を語ることで、自らの横顔を明らかにすることができるだろう。

　池袋の古本屋で、1979年に発行された中上健次の「破壊せよ、とアイラーは言った」のハードカバー版を偶然見つけて購入した。日に薄く焼けた裏表紙をめくると、2100円の値段が貼ってあったが、中上健次の一ファンとしては高いという印象はなかった。本の価値は、誰でもコピー可能なテキストという記号だけで決まるものではない。

　購入して自宅に帰る道すがら、山手線の中でさっそく読み始めた。エッセイ集である「破壊せよ、とアイラーは言った」の内容は出版から30年近く経過しているというのに、いまだに新しさを感じさせるものだったが、その中の「不良性のない時代」という一編に私は注目した。中上は、「三十面さげて」ディスコに取材に行く自分のことを茶化しながら、流行文化に触れて次のように書いていた。

<img alt="netkids-nakagami02.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/netkids-nakagami02.jpg" width="120" height="122" class="photo-l" />「私が欲しいのは、不良性。反抗とも言える。もちろん不良や反抗と言っても、すぐ喧嘩をする事やカツアゲ、オドシをすることととらないで欲しい。青春や若さを輝かす不良性、つまり、若衆が鋭くとがる事であり、世の中を疑う事、否定する事である」

　中上健次の言うことを私なりに解釈すると、青春や若さを輝かすことができる「不良性」とは、既成の体制や流行に対する懐疑心であり、知的でありつづけようとする精神のありようである。たとえば2005年現在、ペストのようにインターネットが蔓延する日本の言論空間。あらゆる事柄を並列化し、平等化したかのような幻想をもたらしたインターネットの支配下で、知的であろうとするには大変な力がいる。平等などどこにもないし、何一つ並列なものなどない。1995年、個人メディアとして登場したインターネットは自由を言論にもたらしたのではなく、それが可能だという幻想をもたらしたのである。インターネットの内部に閉じ込められた私たちにとって、そのような誤解はあまりにも身近なものだ。

<img alt="netkids-nakagami03.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/netkids-nakagami03.jpg" width="120" height="159" class="photo-r" />　作家の言葉というのはライフルから放たれる銃弾のようなものである。1979年に書かれたこのエッセイの言葉が、私の胸を貫き足を止めさせる。少なくとも私の認識する「作家」というものは、そのような銃弾を撃つことができる人間だ。たとえば、私の職場がある渋谷区笹塚駅前に紀伊国屋があり、その本棚には大量の本が並べられている。その書籍の中にどれほど、このような言葉が書かれた本があるだろうか？　その割合について真剣に考えるとき、中上が生きていたらこの現代をどう評しただろうか、と思わずにはいられない。

　私は現在の日本言論のありようを否定したいのではない。私自身もまた、不良性が消失してしまったかのような、この生暖かく不気味なインターネット言論空間の一部であるほかないのだ。だが、この世界を上から見下ろすことができる、ある超越的な立場に立つことができる、と考えるのは愚かだ。世の中を否定することは、言葉で言うほど簡単なことではない。私はこのエッセイを書いた中上と同じ年になって、そのことを少し理解した。世の中を疑うこと、鋭くとがることは1979年にそうであったように、いまもなお困難なのである。言葉を変えれば、中上は世界がどのように変貌しようとも、けして消えてなくならない問題について書いたのである。

<img alt="netkids-nakagami04.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/netkids-nakagami04.jpg" width="120" height="148" class="photo-l" />　そこまで考えて、山手線のドアが開いた。私は新宿で中央線に乗り換え、エッセイを読み返す。中上は、エッセイを次のような言葉で締めくくっていた。「――反抗の術を知らない若衆らは踊る。日本で敗戦後、若衆の間にダンスが流行したと聞くが、踊る者にそんな痛々しい気配はない。私は一人、見ている」

　反抗の術を知らない若衆の姿は、インターネットに生きる私たちの姿と重なる。象徴的なのは、中上がこのエッセイを否定でもなく、疑うことでもなく、「見ること」で終わらせていることである。不良（知的）でありつづけるために、世界のありのままの姿を捉えよ。私が確かに聞いたのは、そのような力強いメッセージだ。]]></description>
         <link>http://noon.serio.jp/netkids/2005/12/post_2.html</link>
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         <category>プロフィール</category>
         <pubDate>Sat, 31 Dec 2005 21:28:24 +0900</pubDate>
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         <title>奪われた名前を取り戻せ−「千と千尋の神隠し」評</title>
         <description><![CDATA[<img alt="chihiro1.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/chihiro1.jpg" width="120" height="86" class="photo-r" />「匿名性」。インターネットについて語る際、よく利用される言葉だ。ホームページという「個人メディア」が登場した1995年以降、顔の見えない言葉だけのやり取りが、どこでも瞬時に行えるようになった。日本においては、匿名の巨大掲示板「２ちゃんねる」のようなメディアが生まれ、匿名の無責任文化が定着したかに見える。

<img alt="chihiro2.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/chihiro2.jpg" width="120" height="210" class="photo-l" />　そんな、2001年に宮崎駿が発表したアニメ映画が「千と千尋の神隠し」だ。主人公の少女は、ふとしたきっかけで妖怪達が住む異世界に迷いこんでしまう。少女は一緒に迷い込んだ両親を救うために、妖怪のボスである魔女のもとで働き始めるというストーリーである。仕事の体験を通して、少女の「生きる力」がよみがえる、というのがキャッチコピーだが、本作品にはもう一つ隠れたメッセージがある。

　物語の冒頭で、主人公千尋は父が運転する車の後部座席で寝そべって空を見上げている。ここで無気力さを強調しているのは、主人公の成長を効果的に描く都合だけではない。内向的で無気力という特徴を持ったネット世代、つまり九十年代以降に青春を過ごした層を、千尋に代表させているのだ。

<img alt="chihiro3.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/chihiro3.jpg" width="120" height="167" class="photo-r" />　千尋が出会う妖怪の中に「カオナシ」と言う妖怪がいる。カオナシはちゃんとした言葉を喋ることができない、欲望に忠実な、いわば未成熟な怪物だ。また、物語の鍵であり千尋を助ける「ハク」というヒーローは、自分の本当の名前を魔女に奪われているため、本来の力を発揮できない。カオナシとハクは顔の無い匿名文化の「裏」と「表」ではないか。匿名性は人間の生きる力、その本来の力を奪っている、と読める。	

<img alt="chihiro4.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/chihiro4.jpg" width="120" height="85" class="photo-l" />　千尋もまたハクのように名前を奪われ「千」という存在に貶められてしまう。千はどうやったら名前を取り戻せるのか？　宮崎監督が投げかけた刃物のような問いかけは、今を生きる私たちの喉元に鋭く突きつけられている。]]></description>
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         <category>映画評論</category>
         <pubDate>Sat, 17 Dec 2005 12:05:48 +0900</pubDate>
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         <title>東京国際映画祭「一緒にいて」（Be With Me）を観て　</title>
         <description><![CDATA[<img alt="poster.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/poster.jpg" width="120" height="170" class="photo-l" />　映画や小説といったフィクションが、その作品が生まれた国の姿を、どんなものよりも鮮明に、暴き出してしまうということがある。今年の東京国際映画祭に、東南アジアの小さな島国シンガポールから招かれた一本の映画がある。この映画「一緒にいて」(<a href="http://www.zhaowei.com/bewithme.html">Be with me</a>)は、シンガポールの「いま」の姿を、残酷なまでに暴き出した作品だった。

　白日の下に晒された現実が、すべての読者にとって心地よいものとは限らない。「一緒にいて」の中に描かれる現実。たとえば夫に毎夜暴力をふるわれる妻、親に虐待される子供、他人の不幸に無関心な人々。この映画はこれらの人々に何の救いも与えない。これが人生である、と言わんばかりに繰り返される殺伐とした光景。美しい観光都市を管理するシンガポール政府が、外国人に決して見せたくない裏路地。それを描くことに成功したのが「一緒にいて」だ。

「一緒にいて」の主要登場人物は三人。キャリアウーマンに片思いするパート警備員、同性のクラスメートに恋する女学生、そして妻を失ったショックから立ち直れない老人。三人は直接かかわりを持たず、物語はそれぞれの生活を淡々と映し出してゆく。

<img alt="keibiin.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/keibiin.jpg" width="120" height="68" class="photo-r" />　警備員は勤め先で見かけたキャリアウーマンらしき女性に恋心を抱いている。醜く太って描かれている警備員は、不器用で声をかけることすらできない。警備員の楽しみは、夜自宅でその女性とデートをする妄想をすることである。どこかの部屋で男が女を殴る悲鳴と泣き声がする。陰惨な現実の中で、やがて警備員はラブレターを書く決意をする。

<img alt="student.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/student.jpg" width="120" height="68" class="photo-l" />　女学生は同性のクラスメートに恋をする。二人は幼いやり方で愛し合い、ずっと一緒にいることを誓い合う。観光都市シンガポールのきらびやかな町の光景が挿入される。それは警備員の住居と好対照な美しい眺めだが、どこか寂寥感が漂う。女学生はある日、クラスメートが嘘をついて、別の男性とデートに出かけていることに気が付いてしまう。携帯電話でメールを送るが、返事がない。クラスメートはメールを無視し始めていた。

<img alt="ro-jin.jpg" src="http://noon.serio.jp/netkids/image/ro-jin.jpg" width="120" height="68" class="photo-r" />　小さな小売店を経営する老人は、入院する妻の看病を続けている。弁当を作り、病院まで行って妻に直接食べさせる。老人の自宅には二つベッドがあるが片方は空である。小売店は営業されているが、その雰囲気は暗い。音楽がほとんどない店で老人が一人で営業をしている。店の前を警備員が通り過ぎ、老人と彼が同じ町に住んでいることが見て取れる。やがて、老人の妻はもう死んでいることが明らかになる。

　現実とは優しさや思いやりが踏みにじられる場所だ。誰も不幸な人間を助けてくれはしない。永遠に続く愛情など存在しない。つまりずっと一緒にいることなど不可能だということが、執拗に語られる。警備員の恋は無残な結果に終わり、女学生はクラスメートに捨てられ、老人はやがて死と言う真実を受け入れざるを得ない。「一緒にいて」という皮肉な題名は、この奇怪な現実に対して叩きつけられた挑戦状だ。

(*11月5日、大幅に加筆修正しました)]]></description>
         <link>http://noon.serio.jp/netkids/2005/11/be_with_me_1.html</link>
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         <category>映画評論</category>
         <pubDate>Thu, 03 Nov 2005 14:48:57 +0900</pubDate>
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